応募が集まる“根拠のある金額”にするための第一歩
「この地域の看護師給与の相場は、一体いくらなのだろうか」「どのくらいの時給に設定すれば、必要な数の応募を安定して集められるのだろう」。看護師の採用活動において、多くの医療機関の経営者や人事担当者が最初に直面するのは、この「給与額の妥当性」という課題です。
これまで多くの施設では、過去の前例や近隣の特定の競合施設の給与を参考にしたり、あるいは採用担当者の「勘」に頼って金額を決めてきたかもしれません。しかし、そうした方法で設定された給与額は、時として採用市場の実態と乖離してしまいます。結果として、求人を出しても応募が全く来なかったり、たとえ採用できたとしても、入職後に「聞いていた話と違う」「他の施設の方が条件が良かった」といった理由から、早期離職につながってしまったりするケースは少なくありません。
反対に、もし提示する給与額に客観的な根拠があれば、状況は大きく変わります。その根拠とは、自院の診療圏、つまり看護師が無理なく通勤できる範囲における競合の求人状況、公的な統計データが示す職種別の給与水準、そして現在の求人市場の動向、これらを丁寧に突き合わせて導き出した金額です。このようなプロセスを経て設定された「根拠のある金額」は、求職者に対して強い説得力を持ち、応募数の増加や採用後の定着率向上に直接的に貢献します。
背景・課題:看護師の給与相場が常に変動している3つの理由
なぜ、看護師の給与設定はこれほどまでに難しいのでしょうか。それは、給与相場が固定されたものではなく、常にいくつかの要因によって変動し続けているからです。ここでは、その主な3つの理由を掘り下げて見ていきましょう。
1. 広がる地域差と、職場によって進む“二極化”の現実
まず最も大きな要因として、地域による給与水準の差が挙げられます。これは、公的な統計データからも明確に読み取ることができます。看護師の給与に関する最も信頼性の高い基礎データの一つが、厚生労働省が毎年公表している「賃金構造基本統計調査」です。この調査では、職種別、年齢別、経験年数別、そして都道府県別に詳細な賃金データが示されており、自院が所在する地域の全体的な給与水準を把握するための出発点となります。
例えば、令和5年の同調査結果を見ると、看護師の「きまって支給する現金給与額」は全国平均で約35.2万円ですが、都道府県別に見ると最も高い東京都(約39.1万円)と、最も低い宮崎県(約29.6万円)では、月額で10万円近い差が生じています。この差は、都市部の人材獲得競争の激しさや物価水準の違いなどが複合的に影響した結果です。
さらに、地域という大きな枠組みだけでなく、「どのような施設で働くか」によっても給与には大きなばらつきが見られます。公益社団法人日本看護協会が定期的に実施している「看護職員の賃金に関する実態調査」は、この点を理解する上で非常に参考になります。2024年度の調査報告によれば、病院に勤務する正規雇用のフルタイム看護師の平均年収が約576万円であるのに対し、訪問看護ステーションでは約549万円という結果が示されています。また、クリニック、介護老人保健施設、特別養護老人ホームなど、施設の種類や規模、提供する医療・ケアの内容によっても、給与水準は変動します。このように、看護師の給与は、地域と施設形態という2つの軸によって、複雑な二極化の様相を呈しているのが実情です。
2. 依然として高い離職率と、即戦力人材への期待が生む“上乗せ”
次に、看護師という職種の労働市場が抱える構造的な課題、すなわち離職率の高さが給与相場に与える影響です。日本看護協会の「2024年 病院看護実態調査」によると、2023年度における正規雇用看護職員の離職率は11.3%にものぼります。特に注目すべきは、キャリアの浅い新卒看護師の離職率が8.8%であるのに対し、一定の経験を積んだ既卒看護師の離職率が16.1%と、非常に高い水準にある点です。
これは、多くの経験豊富な看護師が、より良い労働条件やキャリアアップの機会を求めて転職市場に常に流入していることを意味します。採用する医療機関側からすれば、これは教育コストをかけずに即戦力となる人材を獲得するチャンスですが、同時に激しい人材獲得競争に直面することをも意味します。
この競争が、特定のスキルや経験を持つ看護師に対する「即戦力への上乗せ」という形で給与に反映される現象を生んでいます。例えば、夜勤やオンコールに柔軟に対応できること、医師の包括的指示のもと特定行為(気管カニューレの交換や褥瘡のデブリードマンなど)を実施できる特定行為研修修了者であること、あるいは看護師長や主任などの管理職経験があること。こうした付加価値を持つ人材に対しては、通常の給与相場に加えて、数万円単位の役職手当や技能手当が上乗せされることが一般的です。この「上乗せ」の相場観を理解することも、適正な給与設定には不可欠です。
3. 公的統計データと、求人市場における“リアルタイムな相場”との乖離
そして3つ目の理由が、公的統計が示す平均的な数値と、日々刻々と動いている求人市場の「今、この瞬間の相場」との間には、しばしば無視できないズレが存在する、という点です。統計データは、過去一定期間(通常は1年間)の集計結果であるため、どうしても市場の最新の動きを反映するまでにはタイムラグが生じます。
一方で、採用担当者が日々目にしている求人サイトに掲載されている金額は、まさに「リアルタイムな相場」そのものです。例えば、看護師専門の求人情報サイトである「コメディカルドットコム」が2024年1月9日時点で集計したデータによれば、パート・アルバイトの平均時給は、東京都で1,977円、神奈川県で1,877円、大阪府で1,761円となっています。これは、公的統計から算出される時給額よりも高い水準になる傾向があります。
特に、特定の領域では市場が過熱し、局所的に給与が高騰する現象も見られます。その典型例が、在宅医療の需要増を背景に注目される訪問看護の分野です。一部の調査では、訪問看護ステーションの管理者クラスになると、年収700万円から800万円台の求人が珍しくなく、中には経験や実績に応じて年収900万円に迫るような条件を提示する事業所も存在すると報告されています(例:「THEO careworker」の調査レポート)。
このように、統計データという鳥の目で全体像を掴みつつ、求人サイトという虫の目で現場のリアルな動きを捉える。この両方の視点を持ち合わせなければ、現在の採用市場で本当に競争力のある給与額を設定することはできないのです。
実例紹介:公開情報から読み解く“給与相場の景色”
ここでは、実際に公開されている情報や調査記事、求人サイトの集計データをもとに、現在の看護師給与の具体的な相場観、その「景色」をいくつかの切り口で見ていきましょう。ただし、ここに示す数字はあくまで特定の時点での参考値であり、個々の求人の条件、本人の経験年数、勤務形態(常勤・非常勤、日勤のみ・夜勤ありなど)によって変動する点にご留意ください。
都市部におけるパート・アルバイト時給のレンジ
都市部では、クリニックや病院の外来などでパート・アルバイトの看護師を募集するケースが多く見られます。その時給は、地域によって明確な傾向があります。
- 東京都:看護師パートの平均時給は1,977円という集計データがあります(コメディカルドットコム、2024年1月時点)。都心部、特に主要なターミナル駅から徒歩圏内といった利便性の高い立地では、この平均を上回る2,000円以上の設定も珍しくありません。また、美容クリニック、人間ドックや健康診断を専門に行う施設、あるいは夕方以降の夜間診療や土日診療に対応できる小児科外来など、専門性や勤務時間帯によって、さらに時給が上乗せされる傾向が見られます。
- 神奈川県:平均時給は1,877円と、東京に次ぐ水準です。特に横浜駅や川崎駅といった主要駅の周辺エリアでは、都内と同様に時給が高くなる傾向があります。内科や小児科クリニックが夕方17時以降の診療時間帯で募集をかける場合、通常の時給に100円から200円程度を加算するケースが散見されます。
- 大阪府:平均時給は1,761円です。梅田、なんば、天王寺といった主要な乗り換え結節点から電車で15分から30分圏内に位置する医療機関で、給与水準が高くなる傾向にあります。
訪問看護における年収のレンジ
在宅医療ニーズの高まりを受け、訪問看護師の給与は全体的に上昇傾向にあります。役割によって、その年収レンジは大きく異なります。
- 常勤スタッフ(担当者クラス):一般的に、年収500万円台から600万円台が中心的な価格帯となっています。これに加えて、オンコール(緊急時対応のための待機)手当や、実際に緊急訪問した場合の出動手当が別途支給されるのが一般的です。
- 管理者・所長クラス:ステーション全体の運営管理やスタッフの教育、地域の医療・介護機関との連携など、より重い責任を担う管理者層の給与は、さらに高い水準に設定されています。年収700万円前後から800万円台の求人が各所で見られ、2024年時点では一部で「やや過熱気味」との指摘もあるほど、事業所間の人材獲得競争が激化しています。
病院勤務(常勤)における年収のイメージ
病院に常勤で勤務する看護師の年収は、全国的な平均値と、個別の条件によってその実態を捉える必要があります。
- 全国平均(病院・正規フルタイム):日本看護協会の2024年度報告によれば、平均年収は約576万円です。これはあくまで全国の平均値であり、実際には勤務する地域の物価水準、病院の規模や種別(急性期・回復期・慢性期など)、夜勤の回数、役職(主任、師長など)の有無によって、数十万円から百万円単位の差が生じます。
ここまで見てきた様々な「景色」から浮かび上がってくるのは、たとえ同じ市内であっても、最寄り駅の利便性(駅力)や、多くの人が働きにくいと感じる時間帯(夕方以降や土日)に勤務できるかどうかで、給与相場はダイナミックに変動するという事実です。だからこそ、次のステップで解説するように、自院の診療圏を大雑把に捉えるのではなく、通勤時間という具体的なものさしで丁寧に輪切りにし、その範囲内に存在する競合求人を一つひとつ拾い上げていく地道な作業が、有効な戦略となるのです。
解決アプローチ:診療圏の画定から最終金額の決定まで、実践的な“3ステップ”
ここからは、実際に看護師の給与額を決定していくための具体的な手順を、3つのステップに分けて解説します。このプロセスを着実に実行することで、勘や前例に頼らない、客観的な根拠に基づいた給与設定が可能になります。
ステップ1|診療圏(通勤圏)の切り方:“駅×15/30/45分”の輪切りで考える (所要時間:約90分)
給与相場を調べる上で、最初の、そして最も重要な作業が「診療圏」、すなわち採用ターゲットとなる看護師がどの範囲から通勤してくるのかを具体的に定義することです。この範囲設定が曖昧だと、その後の情報収集の精度が大きくぶれてしまいます。
この「診療圏」という考え方は、元々クリニックなどが新規開業する際に、どのくらいの範囲から患者が来院するかを予測するために用いられるマーケティングの手法です。基本的な考え方は、候補地(この場合は自院)を中心に、地理的な条件や交通網を考慮して圏域を設定し、その中にいる競合医院の数や住民の年齢構成などを分析して、潜在的な需要を推計するというものです(東京ドクターズなどが提供する開業支援情報で詳しく解説されています)。
このプロフェッショナルな方法論を採用活動に転用する際、最もシンプルかつ効果的なのが、「最寄り駅を起点とした通勤時間」でエリアを区切る方法です。具体的には、以下の手順で進めます。
- まず、自院の最寄り駅を地図の中心に置きます。そして、Google マップのような地図アプリのルート検索機能を使い、公共交通機関(電車・バス)を利用した場合の所要時間が「片道15分」「片道30分」「片道45分」となる範囲を、大まかに地図上に書き出します。これが、採用活動における3つの同心円、すなわちコアターゲット層、メインターゲット層、サブターゲット層の居住エリアの目安となります。
- 次に、それぞれの圏内を詳しく眺め、特に看護師が多く住んでいそうな住宅地エリアや、乗り換え1回でスムーズにアクセスできる主要なターミナル駅をいくつかピックアップします。例えば、「30分圏内には、大規模なニュータウンであるA駅や、2路線が乗り入れるB駅が含まれる」といった具合です。
- 最後に、ピックアップしたエリアや駅ごとに、自院と競合しうる医療機関、特に「同じくらいの規模のクリニック」や、「同じ診療領域(内科、小児科、皮膚科、整形外科、人工透析、健診、美容など)」の求人が出ていないかを、求人サイトで検索し、一覧化していきます。
この作業を丁寧に行うことで、「自院は、どのエリアの、どの施設の、どの求人と競合しているのか」が具体的かつ客観的に浮かび上がってきます。
ステップ2|“面”で集める相場調査:看護師の給与相場を多角的に調べる方法 (所要時間:約120分)
診療圏を明確に定義できたら、次はその範囲内における給与相場を、多角的な視点から「面」として捉える作業に移ります。特定の1〜2施設の情報を参考にするだけでは、その情報が相場全体から見て高いのか低いのか判断がつきません。網羅的に情報を集めることが重要です。
- 複数の求人サイトを横断的に検索し、ステップ1でリストアップした競合施設の求人情報をExcelやスプレッドシートなどに一覧化していきます。時給、日給、月給、年収といった給与情報はもちろん、交通費の支給条件、試用期間中の給与変動の有無なども記録します。この時、コメディカルドットコムなどが公表している地域別の時給集計データなども参考にすると、市場全体の「肌感覚」を掴みやすくなります。
- 求人サイトで集めた「リアルタイムな相場」の裏付けを取るために、公的な統計データを参照します。
- 厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」では、看護師・准看護師の職種別賃金はもちろん、年齢や勤続年数といった属性別のデータも確認できます。自院がターゲットとする看護師のペルソナ(例:30代、経験10年など)に近い層の給与水準を把握するのに役立ちます。
- 日本看護協会の「看護職員の賃金に関する実態調査」や「病院看護実態調査」も重要です。施設の種類(病院、クリニック、訪問看護など)による給与の違いや、離職率などのデータから、人材の定着という観点も加味して相場を考えることができます。
- 一覧表を作成する際には、単に給与額を並べるだけでなく、相場を変動させる要因を分析するための列を設けることがポイントです。例えば、「時間帯による上乗せ」の列を作り、夕方診療や土日勤務に対してどのくらいの金額が加算されているかを記録します。
- 同様に、「職務上の付加価値」という列も設けます。ここには、採血ルームでの即戦力となる経験、皮膚科や美容クリニックでの勤務経験、透析業務のスキル、内視鏡の介助経験、オンコール対応の可否など、求人票で特に優遇されているスキルや経験を書き出し、それらが給与にどの程度反映されているかの観察記録をメモしていきます。
ここで重要なのは、統計データが「過去12ヶ月の平均値」であるのに対し、求人サイトの情報は「今日、この瞬間の実勢価格」であるという違いを認識することです。この二つを見比べることで、現在、どのスキルやどの勤務条件に人材需要が集中し、給与が上昇傾向にあるのか、その「上乗せの余地」がどこにあるのかを具体的に見抜くことができます。
ステップ3|最終金額の決め方:看護師の時給・年収を決定するための方程式 (所要時間:約30分)
収集・分析した情報をもとに、いよいよ自院の給与額を決定します。ここでは、客観的な根拠に基づいた金額を導き出すための一つの「方程式」を提案します。
基本式(パート・アルバイトの時給例)
提示時給 = 診療圏の中央値 ± (駅からのアクセス補正) ± (勤務時間帯補正) ± (専門技能補正)
- 診療圏の中央値:ステップ2で作成した相場一覧表から、競合施設の時給の「中央値」を算出します。平均値ではなく中央値を用いるのは、一部の極端に高い、あるいは低い求人額に影響されにくく、より実態に近い数値を基準にするためです。
- 駅からのアクセス補正:最寄りの主要なターミナル駅から徒歩圏内など、通勤の利便性が高い場合は、中央値にプラス50円〜150円の上乗せを検討します。逆に、駅からバスへの乗り換えが必須であったり、乗り換え回数が2回以上になったりする場合は、マイナス50円〜100円の調整が必要になるかもしれません。
- 勤務時間帯補正:多くの人が勤務を終える夕方以降の診療(17時以降など)や、土日祝日の勤務に対しては、プラス50円〜200円の時間帯手当を設定することで、応募の動機付けになります。
- 専門技能補正:内視鏡の介助、1日に100人以上の採血に対応できるスキル、美容医療機器の操作経験、透析業務、小児の採血、訪問看護のオンコール対応など、特定の専門技能を求める場合は、その価値をプラス50円〜200円程度上乗せして評価します。
- 短時間勤務への配慮:週に1回だけ、あるいは1日に2〜3時間だけといった短時間の勤務枠は、それだけで埋まりにくい傾向があります。このような柔軟な働き方を希望する層にアピールするために、基本時給をやや高め(プラス50円〜150円)に設定することも有効な戦略です。
常勤(年収)の場合の考え方
提示年収 = 地域の施設類型別の中央値 ± (夜勤回数やオンコールの負担) ± (役割や責任の重さ) ± (人材の需給バランス)
- 基準となる金額:病院勤務の常勤であれば、日本看護協会の調査報告にある約576万円(2024年・正規フルタイム平均)などを一つの目安とします。その上で、自院の地域や施設の特性(急性期か慢性期かなど)を考慮し、ステップ2で調査した近隣の常勤求人の年収中央値を基準とします。
- 夜勤やオンコールの負担:夜勤の回数や、オンコール待機の頻度・緊急出動の実績に応じて、手当の額を調整し、年収に反映させます。
- 役割や責任の重さ:主任、看護師長、あるいは訪問看護ステーションの管理者といった役職に就く場合は、その役割と責任の重さに応じて、数十万円から百万円単位の役職手当を加算します。特に管理者の場合は、市場が過熱している実態(年収700〜800万円台の求人が散見される)も踏まえた、戦略的な金額設定が求められます。
この方程式を用いることで、単なる思いつきではない、採用市場での競争力を客観的に説明できる給与額を算出することが可能になります。
具体的な実践ワーク:90分で作成する“競合・相場分析シート”の雛形
ここまでのステップを、具体的なアウトプットに落とし込むための「相場分析シート」の作り方を紹介します。ExcelやGoogleスプレッドシートを使えば、約90分で自院独自のデータベースを構築できます。
このシートを丁寧に作り込むことで、自院の立ち位置が客観的に見えてきます。「我々の施設の場合、時給を1,900円に設定し、最寄り駅からの近さ、最新の内視鏡設備、そして夕方診療への手当を明確に打ち出せば、近隣のAクリニックやB皮膚科に対して十分な競争力を持てるだろう」といった、具体的な戦略を立てることができるようになります。これは、単に金額を決めるだけでなく、自院の強みをどうアピールしていくかという、採用広報の戦略立案にも直結するのです。
よくある落とし穴と、それを回避するための視点
これまで解説してきたプロセスは、丁寧に行えば非常に効果的ですが、いくつかの点に注意しないと、せっかくの努力が誤った結論に繋がりかねません。ここでは、給与設定の際によく見られる4つの「落とし穴」と、その回避策を具体的に示します。
1. “平均値”に合わせただけで安心してしまい、思考を止めてしまう
最も陥りやすいのが、厚生労働省や日本看護協会の統計データを見て、「全国平均や都道府県の平均と同じくらいの金額だから大丈夫だろう」と安心してしまい、それ以上の分析をやめてしまうことです。しかし、平均値はあくまで市場全体の真ん中の値に過ぎません。もし自院の立地が駅から遠かったり、施設の設備が古かったり、あるいはシフトの柔軟性が低かったりするなど、労働条件が平均以下であるならば、応募者に選んでもらうためには給与を平均より高く(例えばプラス50円〜100円)設定する必要があるかもしれません。
回避策:統計データが示す「過去の平均値」で安心するのではなく、求人サイトで「直近30日以内に公開された求人」の実勢価格を必ず確認しましょう。市場のライブな感覚を掴むことが重要です。
2. 夕診や土日勤務の“特別な価値”を見落としてしまう
日中の時間帯と同じ時給で、夕方や土日の勤務スタッフを募集しても、なかなか応募が集まらないという悩みは多くの施設で聞かれます。これは、その時間帯に働ける看護師が限られており、需要と供給のバランスが崩れているためです。この「時間帯による価値の違い」を観察し、給与に反映させる視点が欠けていると、特定の時間帯だけが永遠に人手不足という状況に陥ります。
回避策:相場分析シートを作成する際に、必ず「夕診・土日」の求人だけを抜き出した別表(またはフィルタリング)を作成しましょう。その時間帯に、競合施設がどのくらいのプレミア(上乗せ)をつけているかを正確に把握し、自院でもピンポイントで加算する手当を用意することが解決の糸口です。
3. 訪問看護の多様な“役割”を混同して評価してしまう
訪問看護の分野で特に注意が必要なのが、スタッフの役割による給与レンジの大きな違いです。求人サイトを見ていると、年収800万円といった高い給与額が目に入ることがありますが、その多くはステーション全体の運営を担う「管理者」の募集です。一人の担当者として利用者宅を訪問するスタッフと管理者とでは、求められる責任もスキルも全く異なります。
回避策:管理者の求人だけを見て、「訪問看護の相場は高すぎる」と誤った判断をしないように注意が必要です。相場分析シートでは、「担当者」「副管理者」「管理者」といった形で、役割ごとに列を分けて給与を記録し、それぞれの相場観を正しく理解することが大切です。
4. “金額”という一つの要素だけで採用競争に勝とうとする
給与は、応募者にとって最も重要な判断基準の一つであることは間違いありません。しかし、それだけで全てが決まるわけではない、という事実もまた真理です。日本看護協会の調査で示されている高い離職率は、金額以外の要因、例えば人間関係、教育体制、業務の負担、キャリアパスなどが、働き続ける上での満足度に大きく影響していることを物語っています。
回避策:金額で競争しようとすると、体力勝負になりがちです。そうではなく、自院の「働きやすさ」を具体的に言語化し、求人票で伝える努力をしましょう。例えば、見学や面接の対応が丁寧であること、入職初日の不安を軽減するためのオリエンテーションやOJT(On-the-Job Training)の計画がしっかりしていること、先輩スタッフがいつでも相談に乗ってくれる風土があること。こうした金額以外の魅力が、最終的に応募者の心を動かし、入職後の定着にも繋がります。
打ち出し方の調整:同じ給与額でも“伝え方”一つで応募率は変わる
適正な給与額を算出できたら、次はその金額が持つ価値を、求職者に最大限魅力的に伝える「打ち出し方」を工夫する段階です。同じ時給1,950円でも、その背景にある情報が豊かであればあるほど、応募者の心に響き、実際の応募アクションへと繋がりやすくなります。
求人票の本文で伝えるべき、具体的な情報
- 具体的な1日の仕事の流れ:単に「外来看護業務」と書くだけでなく、「8:45 出勤・更衣 → 8:50 朝礼・申し送り → 9:00 午前診療開始(主に〇〇科の診察補助、採血など) → 12:30 休憩(スタッフルームでゆっくり過ごせます) → 14:00 午後診療開始 → 17:30 業務終了・片付け」のように、時系列で示すと、働くイメージが格段に湧きやすくなります。
- 入職初日の手厚いサポート体制:「初日は、教育担当の〇〇がマンツーマンで付き添います」「最初の1時間は電子カルテの操作説明から始めますのでご安心ください」「事前に操作方法を解説した10分程度の動画URLをお送りすることも可能です」など、新しい環境への不安を具体的に取り除く情報を提供します。
- 職場環境を伝える3枚の写真:求人票には、必ず写真を掲載しましょう。特に効果的なのが、「清潔で鍵付きの個人用更衣ロッカー」「スタッフが談笑しているスタッフルーム(休憩室)」「実際に業務を行う処置室や採血スペース」の3点です。働く人の目線で、安心できる環境であることを視覚的に伝えます。
- シフト提出・確定のプロセス:働く側にとって、シフトがいつ決まるのかは生活設計に関わる重要な問題です。「毎月15日までに希望を提出し、25日には翌月のシフトが確定します」「急な体調不良などによるお休みの相談もしやすい環境です」といった一文があるだけで、誠実な印象を与えます。
- 給与額の「意味付け」を行う:なぜこの時給なのか、その根拠を簡潔に説明します。「夕方17時以降は、日中の時給にプラス100円となります」「オンコール待機手当は、待機時間に対する時間単価として〇〇円を算定根拠としています」など、金額設定の透明性を示すことで、納得感を高めます。
打ち出し方のパターン例:駅近・夕診ありの皮膚科クリニック(東京都・時給1,950円)
同じ時給1,950円という条件でも、伝え方次第で応募者への訴求力は全く異なります。
- 悪い例:「時給1,950円。皮膚科外来業務。経験者優遇。」
- 良い例:「時給1,950円。駅徒歩3分。夕方16:00-19:00の短時間勤務も歓迎。主な業務は保険診療の補助と医療脱毛の介助です。入職初日は採血と準備片付けがメインなので、ご自身のペースで慣れていけます。事前に10分でわかるカルテ操作動画で予習も可能。まずはお話だけでもOK、30分程度の職場見学も随時受け付けています。」
後者の例のように、「働くことへの不安を減らし、具体的なメリットを提示する情報」が豊富に揃っていると、求職者は安心して応募ボタンを押すことができるのです。
まとめ:数字の“根拠”と魅力的な“伝え方”が採用成功の両輪
この記事で解説してきた、看護師の給与額を決定するためのアプローチを、4つの要点にまとめます。
- 診療圏の定義は、採用活動の出発点です。自院の最寄り駅を中心に「通勤時間15分・30分・45分」の同心円を描き、その範囲内に存在する競合医療機関の求人を網羅的にリストアップしましょう。
- 給与相場は、複数の求人サイトと公的統計を組み合わせ、「面」として捉えることが重要です。算出した相場の「中央値」を基準とし、自院の立地(駅力)、勤務時間帯、求める専門技能に応じて、金額を客観的に微修正していきます。
- 公的統計(日本看護協会や厚生労働省の調査)は、市場の大きな流れや過去の平均値を把握するための「裏付け」として活用します。それと同時に、求人サイトで「今日の実勢価格」を確認し、両者の差から市場のトレンドを読み解く視点が不可欠です。
- そして最後に、どんなに適切な給与額を設定しても、その魅力が伝わらなければ意味がありません。入職初日の具体的なサポート体制、OJTの流れ、職場の雰囲気が伝わる写真、見学のしやすさなど、「伝え方」を工夫することで、実際の応募率は大きく変わります。
給与額の決定は、一度で完璧な「答え」にたどり着くものではありません。むしろ、市場のデータに基づいて立てた「仮説」と捉えるべきです。診療圏の分析から根拠ある金額を導き出し、まずは小さな規模で募集をかけてみて市場の反応を検証し、求人票の伝え方を改善していく。このサイクルを素早く回すことができる採用チームこそが、静かに、しかし着実に採用を成功させ続けるのです。
クーラ導入のご提案:小さな一歩で、採用市場を学び、成功への最短距離を見つける
「分析はできたが、いきなり常勤で募集するのはリスクが大きい」「まずは短時間勤務で、設定した時給が本当に魅力的か試してみたい」。そうお考えであれば、クーラが提供するサービスが、その次の一歩を力強くサポートします。
- まずは“お試し勤務(短期アルバイト)”で市場の反応を見る
- 相場分析シートに基づいて決定した給与額で、「週に1回、夕診帯の3時間だけ」といったピンポイントの求人を出すことができます。これにより、実際の応募状況、面談での候補者の反応、そして採用後の働きぶりや満足度を、低いリスクで同時に検証することが可能です。これは、本格採用におけるミスマッチを未然に防ぐ、極めて有効な手法です。
- “写真と導線”の整備を、応募が来る前に一気に済ませる
- クーラのプラットフォーム上では、更衣ロッカーやスタッフルームといった職場の写真を効果的に見せることができます。また、入職初日の動線(「何時にどこに集合してください」「当日の担当は〇〇です」「持ち物はこちらです」「カルテの予習はこちらのリンクから」)といった情報を事前に、かつ魅力的に伝えるフォーマットが用意されています。同じ給与額でも応募率に差がつくこれらの要素を、募集開始前にしっかりと仕上げることができます。
- 市場の反応を見ながら、プレミア(上乗せ)額を微調整する
- お試し勤務への応募が想定より少ない場合、時間帯加算(夕診・土日)や技能加算(内視鏡介助・小児採血など)を、例えばプラス50円〜150円の範囲で柔軟に微調整し、再度募集をかける、といった機動的な対応が可能です。「上げすぎず、しかし足りなくもない」という最適な給与ラインを、実際の市場反応を見ながら最短ルートで見つけ出すことができます。
- 手応えが得られたら、スムーズに本格採用へ
- 短期のお試し勤務で、双方にとって良い関係が築けたら、そこから勤務回数の追加や期間の延長、さらには常勤雇用へと、スムーズに移行していくことが可能です。給与、シフト、役割という3つの重要な要素を、実際の勤務データという確かな手応えに基づいて、自然な形で最適化していくことができます。
「まずは小さく試す → 市場の反応から学ぶ → 応募が止まらない魅力的な条件に整える」。この健全なサイクルが、無駄な採用コストを削減し、早期離職のリスクを最小限に抑えます。クーラは、この価値ある「小さな検証」を、手間なく、安全に、そして迅速に実行するための最適なパートナーです。
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付録:給与設定プロセス・チェックリスト
□ 診療圏の定義- [ ] 最寄り駅から公共交通機関で15分・30分・45分の範囲で、競合となりうる医療機関の求人を収集したか?- [ ] 収集した求人情報に、最寄り駅の利便性(駅力)や乗り換え回数などの交通アクセス情報をメモしたか?
□ 相場分析シートの作成- [ ] 収集した時給・年収データから、MEDIAN関数などを用いて「中央値」と「上位25%値」を算出したか?- [ ] 「時間帯(夕診・土日)」に関する手当や上乗せ額を分析するため、専用の別表やフィルタリングを行ったか?- [ ] 「技能プレミア(内視鏡、採血量、小児対応、訪問オンコールなど)」の対象となるスキルを列挙し、相場を記録したか?
□ 提示金額の決定と打ち出し- [ ] 「基本式(中央値 ± 各種補正)」に基づいて、客観的な根拠のある提示金額を算出したか?- [ ] 職場の写真や入職初日の具体的な流れなど、「金額以外の魅力」を求人票で補強する準備はできているか?
□ 導入テストと改善- [ ] 週1回・夕診3時間など、小さな枠組みでお試し勤務を実施し、市場の反応をテストする計画を立てたか?- [ ] 実際の応募率や稼働後の満足度に応じて、時給をプラス50円〜150円の範囲で微調整する準備はできているか?
参考・出典(主要データ)
- 厚生労働省|賃金構造基本統計調査(令和5年):職種別・地域別の賃金水準を把握するための基礎資料として参照。(厚生労働省)
- 公益社団法人日本看護協会|2024年度 看護職員の賃金に関する実態調査:病院、訪問看護ステーションなど、施設類型別の詳細な年収水準データとして参照。(日本看護協会)
- 公益社団法人日本看護協会|2024年 病院看護実態調査:正規雇用看護職員の離職率(2023年度実績:全体11.3%、新卒8.8%)など、人材定着に関するデータとして参照。(日本看護協会)
- 株式会社メディカル・プリンシプル社 コメディカルドットコム(2024/1/9時点抽出データ):看護師のパート・アルバイト時給に関するリアルタイムな市場データとして参照(東京都1,977円、神奈川県1,877円など)。(コメディカルドットコム)
- 株式会社THEO THEO careworker:訪問看護分野における給与動向に関する調査レポートとして参照(管理者層で年収700〜800万円台、局所的に900万円近い事例も)。(介護・看護 横浜ケアワーカー)
- 株式会社メディカル・プリンシプル社 Tokyo Doctors:診療圏調査の基本的な考え方(圏域設定→競合分析→世帯特性→需要推計)に関する方法論として参照。(東京ドクターズ)